ページ内を移動するためのリンクです。

TOP > とやまの米どころ 今昔ギャラリー

牛ヶ首用水

 富山市と射水市にまたがる牛ヶ首用水は、県内で最も長い歴史を持つ用水です。約380年前、婦負郡北部(現.富山市)や射水郡東部の一帯は、深刻な水不足に陥っていました。そこで、寛永元年(1642)、加賀藩による用水路工事がスタート。山田川と井田川から水を取り入れた牛ヶ首用水は、同10年(1633)にほぼ完成しました。6年後には、加賀藩から分家した富山藩の村から井田川、山田川の水を取り入れたいという願い出が相次いだため、神通川の本流を水源地とし、そこから井田川までの用水路を造ることになりました。完成後は新しい水田が次々に開かれ、石高が四万石にも達したそうです。
  そして、昭和37年(1962)には、用水路や取水施設の老朽化や水田の乾田化により、近代化工事を開始。17年もの歳月を費やして同53年(1978)に完成しました。

昔・今

手作業で田植えの準備
ひとつひとつ手で植えます
水につかる田んぼの様子
現在の田植えの様子
ほ場整理が進み大型機械が使えるように

十二貫野台地

 僧ヶ岳を背景に日本海を見下ろす十二貫野台地。この台地を潤しているのが、今から約170年前に造られた十二貫野用水です。当時は凶作や洪水による大飢饉が続いており、その現状を打破すべく立ち上がったのが、"用水づくりの天童"と呼ばれる椎名道三でした。黒部川の水を標高250メートルの十二貫野台地に引くという難工事でしたが、道三の知恵と工夫、斬新な工法により、23キロメートルに及ぶ水路をわずか15ヶ月という短い工期で完成しました。特に道三の発想が光るのは、支流にあたる竜ノ口用水です。「伏越の理(逆サイフォン)」の理屈を利用し、谷を横断することに成功。今はコンクリート管に替わりましたが、当時は石管を使って水を噴き上げていたというから驚きです。
 地域振興や環境保全などの視点から選定される「疎水百選」のひとつでもある十二貫野用水。220ヘクタールのかんがい面積を有する十二貫野台地には、今もなお開拓に心血を注いだ道三の努力が息づいています。

昔・今

改修前の尾ノ沼谷取入口
尾ノ沼谷は十二貫野台地の水源のひとつ
出展:「水を求めて十二貫野用水」水土里ネット富山
実際に使われた石管。
十二貫野湖の展示館でも見ることができる
十二貫野台地には小さなため池が
いくつも点在した(施工中の十二貫野湖)
ほ場整備が進んだ十二貫野台地(平成8年撮影)
復元水路の新第一分水での用水見学会
出展:「水を求めて十二貫野用水」
水土里ネット富山
13カ所のため池をまとめた十二貫野湖
(中山ため池)

舟倉用水

 舟倉用水は、200余年前に荒れ地だった船峅台地(旧大沢野の東北部)を開墾するために造られたものです。
 測量・設計に13年もの歳月を要し、開削工事が始まったのは、文化7年(1810)のこと。高度な技術を要する引水方法や手間のかかる採掘作業が行われ、5名の殉職者を出すほどの難工事であったと伝えられています。
 文化13年(1816)、総長14kmの舟倉用水が完成。350haの農地が拓かれ、農民に初の収穫をもたらしました。さらに用水の改修により、新田開発が進み、生産高も増えていきました。昭和44年には、第1号となる25haのほ場整備を実施。以来、平成3年(1991)度までに船峅台地のほぼ全域が整備されました。
 平成18年(2006)、農林水産省の「疎水百選」に選ばれた舟倉用水。現在は船峅台地の美田を潤し、豊かな穀倉地帯を育んでいます。

昔・今

整備前のほ場(昭和22年)
物資の運搬に使われた馬車軌道
舟峅大地を望む
薄波取入口
寺津地区周辺

常願寺川流域

 国内超一級の暴れ川といわれる常願寺川。その流域はかつて、毎年のように洪水が起き、農地が泥海や転石だらけの河原と化したり、農業用水路が土砂で埋まるなどの災害に見舞われてきました。
 そのため、明治28年(1895)には県下初の水田区画整理に着手し、昭和27年(1952)には取水口を一つにまとめた「横江頭首工」を完成させ、常に安定した水を田畑に送ることができるようになりました。
 平成11年(1999)からは、より安全な頭首工を目指して再整備をスタート。今では、この地域の農地整備率は90%近く(平成17年度時点)まで進み、富山の穀倉地帯の一翼を担うまでになっています。平成20年度(2009)には、新しい横江頭首工が完成し、より豊かな農業が営まれています。
また、春には、河口から源流までの標高差による桜の開花リレーが見られ、多くの人々の安らぎの場として親しまれています。

昔・今

かつての合口用水 
写真提供:常西用水土地改良区
昭和20年代 農耕馬による代掻き
出展:「越の国は川の道」北陸農政局
かつての暴れ川も豊かな恵みを育む
出展:「越の国は川の道」北陸農政局
地域住民に愛される、常西用水プロムナード
写真提供:水土里ネット富山

下八ヶ佐加野用水

 高岡市の西部を流れる下八ヶ佐加野用水ができたのは、今から300年以上も前のこと。「田んぼがいつでも水で潤うように用水路を造ろう」という熱意を抱く二上村の安藤兵九郎が中心となり、五十里村の人々と協力して約9年かけて完成させました。この用水とともに新しい水田が開かれ、それらに絶えず水が行き渡るようになり、完成前と比べて4~5倍ものお米がとれるようになりました。小矢部川の水を引き入れることで干ばつの心配もなく、人々の暮らしも豊かになっていきました。

 現在、この用水の恵みを受ける地域は約423ヘクタールあり、なかでも国吉地区は富山を代表する米どころの一つとなっています。

昔・今

昭和30年頃の様子
今に伝わる古い地図
小矢部川とならんで流れる下八ヶ佐加野用水
豊かな恵みをもたらしている用水の水

庄川扇状地

 往古より砺波・射水平野を潤す庄川は、氾濫を繰り返し、庄川扇状地の西から東へと何度も流れを変えてきました。江戸時代には、加賀藩が高岡城下と穀倉地の砺波平野を庄川の氾濫から守るために、庄川扇状地の上端に大堤防を築造して、庄川の各分流を一本化する大工事「松川除」を行い、44年という歳月を費やして完成させました。この工事により、砺波・射水平野の新田開発が一段と進みましたが、洪水の被害はなくなりませんでした。その後、明治33年(1900)から大正元年(1912)にかけて行われた「庄川第一期改修工事」により、庄川と小矢部川を完全に分離させたことで、水の被害はなくなりました。

昔・今

早乙女が22人も並ぶ大田植え
旧川筋にあたる、野尻川筋付近(現、鷹栖)
昭和のころの松川除
日本の原風景を今に伝える散居景観
現在の松川除

下片貝川流域

 江戸時代初期、片貝川流域は雑木林に覆われており、この地を開墾することが村民の願いでした。しかし、そのためには高さ20m、長さ300mにわたって盛土し、その上に用水を通すことが必要でした。工事は慶安元年から4年かけて完成しましたが、手で何度盛土しても雨で崩れてしまうため、人柱を捧げたといわれるほど大変困難なものでした。江戸時代中期には用水の数は20本もありましたが、災害に弱く復旧には多大な労力を費やすため、明治22年には取水口を5ヶ所に減らし、昭和30年には取水口を1つにした合口用水を完成。現在、その合口用水は魚津市内の水田の70%を潤し、豊かな水田地帯を形成しています。

昔・今

くりかえされた大洪水
奥は「川中島」となった貝田新集落
昭和の初めころの堰の様子
富山湾から望んだ、魚津市の山、川、野
水をせき止めてまとめて取水する、
黒谷頭取工

十二町潟周辺

 昔、十二町潟は、万葉歌人・大伴家持が「布施水海」と詠んだ大きな海でした。江戸時代までは川幅が狭く急カーブのある排水路しかなかったため、大雨が降ると洪水になり、周辺の水田は大きな被害を受けていました。しかし、明治2年に新たな排水路として新川が完成。その後、明治19年までに約120ha、昭和21年には約500haまで開田が進み、同年からは潮止め水門や排水機場の建設が行われ、よりいっそう乾田化が進みました。現在は、水郷公園として昔の姿を残しており、全国でも有数のトンボの生息地、天然記念物のオニバスやイタセンバラの生息地として知られています。

昔・今

田舟を使って、農作業が行われていました
年に1,2度は家や稲が水につかるくらいの
水害がありました
富山湾から望む氷見市
天然記念物、絶滅危惧種の
イタセンパラ

射水平野

 

 神通川左岸北部一帯のたんぼは、かつては湿田(1年中水につかった田んぼ)でした。そのため農作業はすべて舟に乗って行われていました。昭和37年からの用水の大工事によって水田の乾田化が実現。新しく用水ができると同時にほ場整備が進み、射水平野は現在のような富山県を代表する米どころの1つとなりました。

昔・今

稲干し用の稲架木(はさぎ)として
トネリコの木が植えられていました
田んぼに肥料を撒くのにも
舟が使われました
射水平野東部からの眺め